2013年6月2日日曜日

準本選第2日目 & クライバーン・コンクールに足を運ぶひとびと

今日は準本選第2日目。これで12人全員が、ソロまたは室内楽の演奏を終え、明日と明後日に、この2日間で演奏していないほうを皆が演奏し、準本選が終了します。

今日の6人の演奏のなかで、断然光っていたのがAlessandro Deljavanの室内楽。予選の演奏で私はすでに彼をひいき目で見るようになっているのは認めますが、今日の彼のドヴォルジャークの演奏は、その歌い上げかたといい、きめ細かさといい、ダイナミックさといい、なにをとっても素晴らしく、室内楽の醍醐味を存分に味わわせてくれるものでした。これだけでもう、彼を本選進出だけでなく入賞させてしまいたいくらい素晴らしかった。それに対して、同じくドヴォルジャークを演奏したAlexey Chernovは、ソロはなかなかよかったのに、明らかに室内楽の経験不足と思わせるものでした。まず、全体的に音が大きすぎかつ明るすぎて、基本的な意味で弦とのバランスが悪い。さらに、多くの部分であまりにもテンポが遅すぎて前に進まず、そして他の部分では逆にやたらと速くなる。Deljavanの同じ曲の演奏がとりわけ素晴らしかったので、それとのコントラストがあまりにも明らかだったのが気の毒なくらいでした。今日室内楽を演奏した残りのひとり、Fei-Fei Dongはブラームスを演奏しましたが、これは昨日のKholodenkoや今日のDeljavanほどではないけれど、なかなかよかった。この演奏にかんしては予選で選択していたドイツのスタインウェイではなく、ニューヨークのスタインウェイを使ったのも、弦との音のバランスという点で賢い決断だったように思います。とにかく、こうして見ると、室内楽というのは本当に、ソロとは全然違った能力が必要とされるものだなあと実感します。「室内楽が上手な人はソロも上手だけれど、ソロが上手な人が室内楽が上手とは限らない」、とはよく言われることですが、本当にその通り。

いっぽう、今日のソロは、Nikolay Khozyainov, Jayson Gillham, Sean Chenの3人。Khozyainovは、20歳の若さでありながら世界のいろいろなコンクールで優勝・入賞していて日本でも注目されていますが、このコンクールでのこれまでの演奏を聴く限りでは、私にはそれほど特別素晴らしいとも思えない、というのが正直な感想。Jayson GillhamとSean Chenの演奏はどちらもとてもよく、前者は音質の明るさときれいさ、後者はジュリアードで勉強した人によく見られる輪郭の明確さが感じられました。

ところで、今日の午後の部で私の右隣に座った男性とおしゃべりをしたのですが(このコンクールに通っていると、周りの席の人たちとたくさんおしゃべりをします)、彼は、クライバーン氏がチャイコフスキー・コンクールで優勝したときに高校生だったというので、年齢は70代。ピアノのコンサートに来たのは、生まれてこのかた今日が初めてだそうです。私が、「で、なんでこのコンクールを見に来ることにしたんですか?」と訊くと、「もう何十年もフォート・ワースに住んでいて、もちろんヴァン・クライバーンのことも、クライバーン・コンクールのことも、話には聞いていたから、いつかは試しに行ってみようとずっと思っていたんだ。それを実行に移したってわけさ」という。昨日の演奏をネットで見たときに、「室内楽の演奏も審査の一部だということを知らなかったから、スポーツの試合のハーフタイムでショーがあるようなもので、室内楽は本番と本番のあいだのエンターテイメントだと思ったんだ」と笑いながら、「バイオリンと一緒の演奏だと、ピアニストが上手なのか下手なのか僕にはさっぱりわからない」と素直なコメント。「ピアノのこともクラシック音楽のこともなにも知らないけれど、これまでの演奏はたくさんインターネットで見たよ。自分の感想が審査員の評価とどのくらい合っているか、比べるのが面白いんだ」と言って、昨日の演奏のなかで誰が気に入ったかを、プログラムを広げながら一生懸命話してくれました。70代になって生まれて初めて生のピアノ演奏を聴きにやってきて、前から4列目の真ん中の席に陣取って、居眠りをするでもなく、実に熱心に集中してずっと聴いている。休憩時間には、「どうだったと思う?」と私に訊いて、自分の感想と比べてみる。なんとも美しい光景ではありませんか。

いっぽうで、私の左隣に座っているのは、私と同様コンクールまるごとチケット2枚をとっていて、友達と一緒に来ている女性で、2005年のコンクールから通い続けている熱心なファン。若いときにピアノを習っていたことはあるけれど、ここ数十年はまったく弾いておらず、ピアノ音楽が好きではあるけれど、とくに高度な知識をもっているわけではない。妊娠中の娘がいて、ときどき面倒をみにいかなければいけないので、演奏を逃してしまうこともあるけれど、基本的に毎日やってきて私の横に座るので、ここ一週間、いろいろとおしゃべりを重ねています。「チャイコフスキー・コンクールに行ったことある?私はいつかモスクワに行ってチャイコフスキー・コンクールを見てみたいと思っているのよ」ともいう。彼女は、今回も審査員のひとりであるメナヘム・プレスラー氏が演奏しているドヴォルジャークのピアノ五重奏の録音をこよなく愛していて、ここ何年間も車を運転するときはいつもそれをかけているので、曲のすみずみまで知り尽くしている。で、昨日のこの曲の演奏が気に入らず(今日のこの曲の演奏を私が気に入らなかった以上に、彼女は昨日の演奏が気に入らなかった模様)、「この曲は、もっともっとダイナミックで、歌心と遊び心があって、最後の楽章では笑いがあるのに、今の演奏はちっともそれが表現できてなかった!」と、顔を赤くして憤慨していました。

このような素人たちが演奏についてあれこれ言うことを、うっとうしく思ったり、バカにしたりする人たちもいるでしょうが、私は、こういう人たちの存在こそに、クライバーン・コンクールの力を感じます。実際に意味をもつ評価は、ちゃんとした立派な審査員がしてくれるのですから、私の右隣の男性や左隣の女性(そして私も)の評価が正しいかどうかは、どうでもよいのです。そんなことより、ピアノ専攻の学生でもなければ、ピアノ教師でもない、まったくの素人が、クラシック音楽についての知識がないから自分にはよくわからない、などと萎縮することなく、音楽に対する素直な好奇心と、オープンな耳と心だけを持って、演奏を聴きにやってくる。そして、演奏から自分なりのものを感じ取って、興奮したり感動したり落胆したり憤慨したりする。そして、周りの人たちと意見を交換したり、自分が気に入ったピアニストに入れこんで応援したりする。こういう空気が生まれるのは、これらの演奏が、普通のコンサートではなく、コンクールという形式である、ということは一因としてあると思います。それと同時に、こうした雰囲気をコミュニティのなか、そして世界(コンクールにやってくるのはフォート・ワース近辺の人たちだけではなく、アメリカそして世界各地からこのコンクールを見るためにわざわざ飛行機に乗ってやってくる人たちもけっこういるのです)のなかで培ってきたクライバーン財団のビジョンと実践力がすごいと私は思います。音楽を専門にする人たちがコンクールを聴きにくるのは、ある意味で当たり前。コンクールに来るのが当たり前でない人たち、生まれて一度もピアノのコンサートに行ったことがなかった70代の男性や、孫の誕生を楽しみにしながら、いつの日かモスクワに行ってチャイコフスキー・コンクールを見てみたいと夢見て、プレスラーの演奏するドヴォルジャークを車のなかで聴き続けている女性が、コンクール会場にやってきて若いピアニストたちの演奏を聴き、むきになって、ああでもないこうでもないと言い合う、そのありかたに、私は演奏そのものと同じくらいの感動を心からおぼえるのです。誰が入賞しようと、実際のところ私にはどうでもいいのですが、こういう音楽との出会い、そして音楽を通しての人との出会い、そうした出会いから生まれる感動があるからこそ、私はコンクール、そして生の演奏というものに意義を感じるのです。私が見いだす意義は、出演者たちにとってのコンクールの意義とはまるで異質のものですが、クラシック音楽が今後も活発なものであり続けるためには、こうした素人たちが、素直な興味をもち、積極的な入れこみかたをするような場を、音楽関係者たちが生み出し続けていく必要があると、このコンクール会場にいると強く思います。