2010年8月19日木曜日

「外国語を話すベビーシッター求む」

親友の家族旅行にくっついて美ヶ原高原に一泊旅行に行ってきました。あいにく霧や雲で星空や周辺の山々はあまり見えなかったものの、首都圏の猛暑が嘘のように涼しく、きれいな空気をいっぱい吸ってきました。帰途は、中学生ふたりの要望(そして一家の母親と私の支持&絶叫系乗り物の苦手な一家の父親の諦念と寛容)により、富士急ハイランドに行きました。私はジェットコースター大好き人間なのですが、日本で遊園地に行ったのは大学のとき以来で、今ではさすがに大人同士でジェットコースターに乗りに行くということはないので、このおかげで久しぶりの体験ができてたいへんコーフンしました。さすがに乗り物も私が大学のときとくらべるとかなり進化していて、「ええじゃないか」という、いかにも人を小馬鹿にしたようなネーミングの乗り物は、ただごとではなくコワい(けど楽しい)!「フジヤマ」には3回(中学生キッズは4回)も乗ってしまいました。ふと考えてみると、そういう乗り物に長時間並んでまで乗るのは、10代後半からせいぜい30歳くらいまでの若者で、我々はもしかしたら最年長の部類だったのかもしれません。ああいう体験をわざわざしたいという人間の心理は、興味深いものがありますね...と、一応ちょっと知的(?)なコメントをして、「ええじゃないか」に乗るのに2時間も並んだ自分たちを正当化してみようとしたけど、やっぱりただのアホか?(笑)

さて、先日のニューヨーク・タイムズに、ニューヨーク近辺で、外国語を話すベビーシッターを積極的に雇おうとする家庭が増えている、との記事があります。アメリカでは、ベビーシッターやナニーといった家事労働には、メキシコやフィリピンなどの出身の女性が従事していることが多いのですが、少し前までは、子どもが言語的に混乱しないように、また、子どもの英語力が遅れるのを避けるために、英語以外の言語を母語とするベビーシッターにも、英語のみを使用することを要求する家庭が少なくなかったのに対して、多文化主義やグローバル化の流れによってそうした考えかたもかなり変化を遂げ、最近では、子どもに自然にスペイン語を身につけさせるために、ベビーシッターに敢えてスペイン語のみを使うよう要求する、といったケースが増えているそうです。

私の友達にも、異なる言語を母語とする夫婦が、子どもを育てる上で言語の問題をどうしようかと模索している人たちがけっこういます。赤ん坊のときから2カ国語(または3カ国語)を家の内外で日常的に使って、自然にすべての言語を身につけ、かつそれぞれをきちんと区別し使い分けられるようになっている子どももいます。そのいっぽうで、複数の言語をある程度は解するものの、どの言語も完全には駆使できなくなってしまう、という子どももいて、そうした状況になるのを避けるために、敢えてバイリンガル教育はせず、生活している土地の主要言語のみを使っている、という家庭もあります。また、夫婦のどちらも中国語は話さないけれども、わざわざ中国人のベビーシッターを雇って、子どもに中国語を教えてもらっている、という家庭もあります。

私自身は子どもがいないので、現実問題としてそういうことを考える必要はありません。が、2カ国語を使って仕事や生活をし、両方の言語で思考や執筆をする人間としては、また、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』に数多くのことを考えさせられている人間としては、単に用が足せるという以上の、深い言語能力を身につけ、それぞれの言語の背景にある歴史や文化を深く理解する人間を育てるためには、どういう道がもっとも有効なのだろうかと、よく考えます。

私は、ごく一般的にいえば、外国語というものは、母語での基礎的な言語能力に、強い必要と欲求と努力が加われば、大人になってからでもじゅうぶん高度な力を身につけられると思っている(現に私の周りにも、大学を卒業するまで外国に行ったことがなかったけれども、きちんとした勉強によりプロとしてじゅうぶん仕事ができる英語力を身につけている日本人がたくさんいます)ので、必ずしも早く始めればいいというものでもないだろうと思っています。たしかに、小さいときからその言語に接していれば、耳が慣れるという側面は強いだろうし、たえず聞いていれば発音もよくなるでしょうが、言語能力においては発音よりもずっと大事なことがあるので、それはさほど重要なこととは思いません。また、この記事でも指摘されているように、幼少のときに毎日ベビーシッターがスペイン語や中国語を話していたとしても、ベビーシッターにつかない年齢になって、その言語から離れてしまえば、子どもというのはすぐその言語を忘れてしまう、ということもあります。ただ、言語を身につけるということとは別に、子どものときから、別の言語を母語とする大人に日常的に接することで、世の中にはいろいろな言語を話す人たちがいて、同じものやことがらをそれぞれの言語では違う表現をする、という基本的なことを体感的に理解することには、かなり意味があるのではないかと思います。(ちなみに私は、小学5年生のときに親の駐在でアメリカに行きましたが、それまで日本語を使う人としか接したことのなかった私には、「アメリカの人たちは、机をみて『ツクエ』と思わない、お腹が空いたときに『オナカガスイタ』と思わない」ということが、しばらくさっぱり信じられなかったのを覚えています。)そして、自国の外に(そして自国の中にも)さまざまな文化をもつ人たちが生きているということを現実として理解し、異なる言語を話す人たちに変な距離感やコンプレックスを抱かず普通に接し、多様な文化や歴史に積極的な興味を養うことこそが、外国語習得に一番重要なことではないかと思います。