2010年5月29日土曜日

NHK「ピアニスト辻井伸行〜心の目で描く"展覧会の絵"」

昨晩NHKで放送になった、「ピアニスト辻井伸行〜心の目で描く"展覧会の絵"」を興味深く見ました。

クライバーン・コンクール優勝後、猛烈なスケジュールで世界を演奏してまわっている辻井さんが、はたしてどうやってレパートリーを広げたりものを考えたりする時間を見つけているのだろうと、私は疑問と心配の混じった思いをもっていました。もちろん、どんな演奏家もつねに時間やプレッシャーと闘いながら音楽家としてのキャリアや世界を築いていくわけですが、演奏家として世界の舞台に立つことによって、そのプレッシャーのありかたはかなり本質的に変化するのではないかと私は想像します。コンクールであれコンサートであれ、たとえば半年後や一年後の大きな舞台を目標に、レパートリーを組んで集中的かつ計画的に練習を積み、自分が納得いくまで演奏を完成させていくのとは違って、数年後までびっちりとツアーの予定が埋まっている状況のなかでは、すでに熟知している演目について自分自身の新鮮な感動を保ち続けることも、また、まとまった時間のとりにくいなかで新しい演目を身につけ完成にもっていくことも、とても難しいはずです。

この番組では、辻井さんが米国ツアーに向けて新しく覚えたムソルグスキーの「展覧会の絵」と格闘し、自分独自のイメージやメッセージをもった演奏に仕上げていくまでのプロセスを追っていました。演奏ツアーの華々しさや聴衆の歓声といった表舞台ではなく、辻井さんが録音を聴きながら曲を覚えるその実際的な側面もさることながら、一連の絵を題材に作曲されたこの大曲を演奏するにあたって、目の不自由な辻井さんがどのようにしてその絵をイメージするのか、辻井さんくらいのレベルのピアニストが一通り音を覚えたあと演奏を創りあげていくにはどのような過程を経るのかといった、音楽の創造プロセスそのものに焦点が当てられていたのには好感がもてました。

それと同時に、音楽の創造プロセスというものを、1時間ほどの番組で映像としてまとめるのは、とても難しいものなんだなあということも実感しました。基本的な番組の筋をあえて言葉にしてまとめるならば、「想像を絶するような努力によって、一般人にとっては驚異的と思えるスピードで辻井さんは新曲を弾けるようになるけれども、ツアー直前になっても、そしてツアーが始まってからも、辻井さんはこの曲について自分なりのイメージを持ちきれず、焦燥感がつのっていた。それが、ツアー途中で、クライバーン・コンクールの同志であるソン・ヨルムの演奏を聴いたのをきっかけに、彼はひとりの人間として自分が音楽に向き合うという基本的な姿勢に立ち返った。そして、曲の最後をしめくくる、荘厳でありながら青く輝く門のイメージを、心のなかに明確にもつことができた。こうして、ツアー最後の演奏会で、彼は音楽家として、人間としての自分が描いた絵を聴衆に伝えることができた」というものです。それはそれで、筋も通っているし感動も与えるし興味深いのですが、音楽という芸術を言葉に還元しきることはできないのと同様、演奏の創造というプロセスにも、線的な物語とそれを表す映像という形では、汲み取りきれないものがたくさんあります。おそらく、音楽の創造プロセスにおいてもっとも重要な部分は、素人が映像として見ていてもあまり面白くはないような性質のものに違いありません。もちろん、なにかがきっかけで「あ、これだ!」というひらめきの瞬間を経験するようなことだって実際にあるでしょうが、創造過程を構成するほとんどは、悶々として苦悩と試行錯誤のなかでじわりじわりとアイデアや音が生まれたり消えたりしていくものだろうからです。そしてまた、じゃあ、ツアーが始まったときの辻井さんのこの曲の演奏と、ツアー最後での彼の演奏がどう違ったのかということを、番組の聴衆自身に感じ取ったり判断したりさせてくれるほど、演奏をまとまって聴かせてくれるような時間的なゆとりもこうした番組にはありません(それは、音楽を扱ったたいていの映画やドキュメンタリーに共通することです。クライバーン・コンクールのドキュメンタリー映画もそうです)。うーむ、なかなか難しい。

辻井さんの話題ついでにもう一度宣伝しておきますが、来週6/5(土)朝日カルチャーセンター新宿校で、「クライバーン・コンクールのドラマと舞台裏」という講座をおこないます。まだ定員いっぱいになるまで余裕があるようですので、興味のあるかたはぜひご参加ください。(ちなみに、私は昨日同じ朝日カルチャーセンターで、岡田暁生さんの講座を聞いてきましたが、2時間半で中世からルネッサンスまでの音楽をカバーし、しかもその時期の世界史の大筋やキリスト教、建築、美術などについての具体的な特徴を盛り込みながら、「クラシック音楽」誕生以前の西洋音楽の変遷を、非常にわかりやすく概説してくださって、たいへんたいへん勉強になりました。私の講座も同じくらい充実して面白いものになるように頑張ります。)

日時 6月5日(土) 10:30~12:00
受講料 会員 2,940円 一般 3,570円(入会不要)
場所 新宿住友ビル7階 朝日カルチャーセンター(申し込みは4階受付)

お申し込みは、朝日カルチャーセンター新宿校 Tel: 03-3344-1945(教養科直通)
ネットで申し込みの場合はこちら。