2009年10月26日月曜日

「女性の地位」に真正面から取り組む

日本での生活が3ヶ月がたち、例年の数週間の滞在の際に見たり感じたりするのとはずいぶんと違う日本を知るようになりました。驚くこと、考えさせられることがたくさんあり、近くに「逆カルチャーショック・レポート」の続きを書こうと思っていますが、今日はそのなかの一点。女性の地位の低さです。一応ジェンダー研究を専門のひとつにしている人間として、今さらこんなことに驚いている場合ではないかもしれませんが、この驚愕の思いを忘れずにいることも大事だと思います。

なにしろ、ここ3ヶ月で私が出かけて行った場所や参加したしたさまざまなイベントや会合において、リーダー的な立場に女性が立っていることがほとんどまったくと言っていいほどないのです。私が行くようなイベントや会合というのは、大学関係、芸術文化関係、出版やビジネス関係、労働組合関係などですが、その業界や分野で活動している人全体のなかでは女性が比較的多いであろうエリアでさえ、女性が舵を取ってものごとを動かしているところにほとんど遭遇したことがありません。リーダーどころか、50人ほどの参加者がいるイベントに、私以外は1人たりとも女性がいなかったことも何度もあります。男子校を訪問したわけでもないのに、部屋いっぱいに人が集まっているところに入って、そこにいるのが全員男性だと、私にはものすごく異様な光景に映るのですが、日本で多くの分野で仕事をしている人たちにとってはそれがかなり普通のことなのでしょうか、その光景を特に異様だと思っているような様子も感じられないし、「おじさんばっかりだね」とか「女性が少ないね」とかいったコメントを参加者のほうから聞いたこともありません。

活躍している女性がいないと言っているのではありません。自分の知人友人を含め、非常に優秀で大きなビジョンのある女性がいろいろな分野で活躍していることは知っていますし、いわゆる「エリート」女性以外にも、派遣社員やパートタイマーなどを含め、今の日本の社会経済を支えている女性労働の功績は巨大なのもわかっています。しかし、あまりにもそうした女性たちの存在が見えないし、声が聞こえない。単なる労働者数の点からいっても、これだけ女性がいるのですから、それに相応する割合で女性がさまざまな場で発言するようになって当然じゃないでしょうか。もちろん、数合わせのためにとにかく女性を配置すればいいとか、とにかくリーダーを女性にすればよいなどとは言っていません。それでも、あらゆる場に女性がいることが普通の社会にはなるべきで、そのためには要所要所に女性が配置されることはとても重要だと思います。アメリカでも、ビジネスや科学や軍事など、分野によってはまだまだ圧倒的男性優位な分野がたくさんありますが、それでも、女性(そしてマイノリティ)がまったくその分野にいないのはよくないことであるという建前が少なくとも存在し、人工的な策をとってでも女性を積極的に採用したり参加を促したりしています。50人以上の会合に行って女性がひとりもいなかったなどということは、私はアメリカでは体験したことがありません。

といったことを考えていると、今日のニューヨーク・タイムズに、現代アメリカの女性の地位について論じた論説が載りました。筆者は、長年ウオール・ストリート・ジャーナルの記者と編集者を務めたのち、大手出版社コンデ・ナスト社でビジネス誌を創設し初代編集長となったJoanne Lipmanという女性です。第二次フェミニズムといわれる1970年代のアメリカ女性運動の功績によって、確かに女性はさまざまな分野で活躍の道が開かれるようになり、筆者自身を含めさまざまな分野で女性がリーダー的な地位に立つようにもなった。しかし、よくよくデータを検討してみると、そしてメインストリーム・メディアでの表象をきちんと見てみると、現代アメリカにおける女性の地位は驚くほど低い、との主旨。女性の所得や管理職につく女性の割合など、数量化できるデータにおいて女性の地位が明らかに低いのみならず、テレビやラジオやインターネットにおける女性をめぐる言説においても、信じられないほど前時代的な発言が平気でなされている、とのこと。

キャリアを築いてきた女性として、そしてリーダーの地位にたっている立場から、こうした状況を変革していくために彼女が出しているアドバイスがなかなか興味深いです。ひとつは、女性はもっと自分に自信をもち、つねに「よい子」であろうとすることをやめ、自分の要求や希望をはっきりと表明することをためらわないこと。(編集長である彼女のもとに、男性社員はしょっちゅう昇給を求めてくるのに対し、昇給を求めてきた女性はひとりもいない、とのこと。お金に関する態度の男女差については、同じ主旨のことを他でも読んだり聞いたりしたことがあります。)もうひとつは、ユーモアのセンスを忘れないこと。ここでいう「ユーモアのセンス」とは、日本で言う「ユーモア」とはちょっと違って、面白可笑しい冗談を飛ばすとかそういうことばかりではありません。難しい状況にあっても、一歩も二歩も引いたところから自分のおかれた状況やものごとの全体像をゆったりと見回す心の余裕を忘れずに、自分のことも周りのことも面白がって笑える態度を大事にする、ということです。どんなに正当な論を吐いていても、つねにキリキリして怒ってばかりいる人とは、やはり周りの人はつき合いにくいものです。次に、女性であることを大事にすること。フェミニズムや女性の地位向上というのは、女性が男性と同じになることを求めるものではない。女性には女性特有の文化や行動パターンや生き方があるのであって、それを大事にすることが社会全体が豊かになることでもある。そして最後に、職業の機会拡大や所得増大といった目標に力を注ぐなかで、本来もっとも大事なはずのこと、つまり、「尊敬を得る」ということを忘れないようにする、ということ。どんなに政治家や管理職や大学総長に女性が増えても、社会文化全体が、女性の基本的な尊厳を無視するような女性イメージをたくさん生み出しているようでは、本当の意味で女性の「地位」が向上したとは言えない。

まったくもってその通りです。女性の地位が向上するということは、弁護士の女性も、寝たきりで介護されるおばあさんも、子育てに専念する主婦も、お掃除のおばさんも、女子高生も、派遣OLもみな、男性にも女性にも尊厳と愛情をもって扱われる、ということでしょう。

「女性は『よい子』であろうとすることをやめる」という点に関連して、とくに日本の女性は、「『可愛く』あろうとすることをやめる」のがいいんじゃないかと思います。別に、可愛いことが悪いわけじゃありません。可愛いことで、本人も周りも幸せになることはたくさんあるし、可愛いか醜いかだったら可愛いほうがいいに決まっています。しかし、この論説にもあるように、そもそも女性の特性が「可愛い」か「醜い」かの二分化で考えられることがそもそも間違っているのであって、日本の女性に求められがちな「可愛さ」を追求しようとするあまりに、もっと大事なものを失ってしまっている女性があまりにも多いように私の目には映ります。そして、やたらと「可愛い」ことを要求するような相手や文化に対しては、「糞喰らえ」と言ってしまえばよいと思います。「可愛い」ことよりも、もっと大事なことがたくさんあります。「強い」とか「人の気持ちがわかる」とか「勇気がある」とか「賢い」とか「知識がある」とか。そういったことを真剣に追求している人は、自然に可愛くもあるものではないでしょうか。可愛さというのは、ひとつには謙虚さの顕われであって、本当に強くて賢くて人の気持ちがわかる人は、謙虚なものです。

それと同時に、「ユーモアのセンスを忘れないこと」と関連して言えば、日本においては、「おじさんと上手につき合うこと」がとても大事。自分で言うのもなんですが、私はおじさんの扱いが上手です。かなり無茶苦茶なおじさんとでも、自分の尊厳を損なったり主張を曲げたり相手に媚びたりすることなく(これが大事)、結構楽しくわいわいやって、自分の言うことを聞いてもらうのが得意です。世の中をおじさんたちが動かしている以上、これは大事なスキルです。どこでどうやってこうしたスキルを身につけたのか、自分でもわからないのですが、まあとにかく、それこそ状況を面白がって笑える「ユーモアのセンス」を忘れずにいることはポイントです。

書いているうちになんだか訳のわからない文章になってきましたが、とにかく、日本でもアメリカでも「フェミニズム」などという単語はまるで流行らなくなってはいるものの、個々の女性自身も、さまざまな組織も、そして社会全体も、女性の地位ということに関して、もっと正面切って取り組むことが必要だと思います。とりあえず、福島大臣には頑張っていただきたいです。